お針子 作業部屋

  帰国したお針子です

高槻グリーンハイツ

地震のニュースを見て、大変動揺した。

25歳から30歳まで高槻に住んでいた。
地震のあった年の5月に高槻に引っ越したのだ。
もう20年ほど前の事なので、駅前の様子も、よく行ったスーパーや美容室も、働いていた服屋も本屋もショッピングセンターも大きく変わっているに違いないのに、見慣れた風景のように思えてとてもとても怖かった。

地震が多いのは、いくつものプレートの重なりの上に日本があるせいだと、小さい頃から何度も何度も聞いていて、実際見たこともないような深海の状況や地面の下を、知ったような気持ちになって、しょうがないよねとなんとなく納得していた。
天災が恐ろしく無慈悲なものだと、本当は何も知らなかった。



23年前に阪神間で大きな地震が起きた時、西宮に住んでいた。
高速道路の倒壊したあの辺り。当時は修行中で寮住まいだった。

バブルが弾けて高校生の就職口が激減したせいもあって、職業訓練校でもあった和裁の修行先は、寮に入りきらないほどの生徒がいた。
そんな状況で近所にある古いアパートを外部の寮として借り上げて一部の寮生を住まわせていた。

早朝に起きた突き上げるような大きく長い揺れは、古いアパートの一階を押しつぶし、二階部分を一階の高さにしてしまった。
ブロック塀は壊れて倒れ、近所にある小さなお社は柱が倒れて屋根が落ち、道路は車が通れず、狭い路地は真っすぐ歩くこともできない。
何処かでガスが漏れたのか、臭いがする。

潰れたアパートの柱や瓦礫を、近所の住人で運び、押しのけ、掻き出し、一刻も早く助け出そうとした。
あちこちで建物が倒壊していて、公的な助けは待てない。
二人の後輩が亡くなった。

ひび割れた道路から湧き出す水。いつまでも止まない余震。



そんなことがすべて、生々しく思い出される。
もう23年も経って
ワタシはすっかりおばちゃんになってしまったのに。

当時はまだ心のケアとかの問題は大きく取り上げられておらず、毎日のように報道され続けた地震関連のニュースは、3月に起きた地下鉄サリン事件関連の報道であっという間に縮小し、流行り物のようにびっくりするほど取り上げられなくなった。

家も、家族も、仕事も、全てなくなって立ち尽くす人たちの気持ちは、一年経つ頃には追悼番組で「あの人は今」みたいな取り上げられ方しかせず、まるで、まだそんなことで悩んでんの?と言われているような気持ちになり、口を噤むしかなくなった。



もう23年も昔のことだから
今だからこそ言うけれど。

阪神で被災したヒト達は、今も心の傷はかさぶたのままで、ちょっとしたことで血を流す。
目には見えない傷口を、誰にも手当てされないまま数十年が過ぎてしまった。
亡くなった彼女らの姉妹でも、親でも、身内ですらないワタシは、涙を流し「傷ついた」と訴える権利などないと思ってしまった。

被災した多くの人間は、特別扱いしてほしいのではないと思う。
それぞれの感じ方はあると思うけれど、少なくともワタシは何年経っても「もう過ぎたこと」にはならないし「そろそろ忘れても」いいことは一つもない。
「亡くなった方たちの分」を「前向き」に「生きていく」ことは出来ない。
あるのは自分の人生だけで、それらを彼女らが出来なくなったことだけが事実だ。

結婚すれば若かった彼女らの姿を思いだし、出産すれば彼女らの年齢を思いだし、子を祝えば彼女らの両親との対面を思い出す。
それと同様に、地震が起きればあの早朝を思い出すのだ。



天災はいつでも起きるし、誰でも巻き込まれる可能性がある。
自分の力では何ともできない事の方が多いし、時と共に新しい何かが起きて記憶はどんどん上書きされていくけれど。
いろいろな災害に遭わず平穏であれたヒト達の幸運を喜びたい。本当によかった。
そしてたまたま無事だった人達は、幸運であったことを噛みしめて、災禍に巻き込まれてしまったヒトを、他人ごとと考えずに涙を流すくらいに柔らかい気持ちで、ただただ思ってほしい。